明日の地域づくりを考えるシンポジウム 第1回
“地域デザインと住民参加”の課題を探る
日 時 : 平成12年4月22日(土)10:00ー12:00 場 所 : 盛岡市中央公民館
パネラー: 司会 中澤 昭典 (盛岡市 公務員) 大村 尚視 (盛岡市 新聞記者) 丸山 暁 (大迫町 建築家)
主催:明日の地域づくりを考える研究会
キーワード:情報公開、参加意識、民主主義、直接民主制、ワークショップ、公募、住民参加のはしご、専門家の役割、パートナーシップ、中間的立場、市民と住民、プロセスを共有、行政と住民で責任分担、地域の構成員、地域のしがらみ、対等、議会、イデオロギー
お問い合せ:saki@isop.ne.jpまで
プログラム
@ パネルディスカッション
司会(中澤):「地域デザインと住民参加の課題を探るシンポジウム」という、仰々しい名前をつけましたが、“住民参加”についてみんなで話し合いたいというのが趣旨です。主催の「明日の地域を考える研究会」とは何かと言いますと、NPOというほど立派なものじゃなくて、仲間うちの5人で集まっている勉強会です。私は公務員なんですけれども、建築家の丸山さん、新聞記者の大村さん、コンピューター会社を経営している佐々木さん、それから、そこに座っていらっしゃる風景の方を研究している田村さんっていうのが、集まって勉強会をしていたわけなんです。たまには他の人にも参加してもらって意見交換をしてみようというのが、今日の趣旨です。
全く私的なプライベートな会です。私は公務員なんですが、基本的に役所を代表して発言する立場ではありませんので、1人の市民としてプライベートな意見を言うということです。大村さんも同じように新聞社に勤めていますけれど、個人的な意見を言うというような形をとって、みんなで勉強会をやっていこうというのが会の趣旨です。
今日の会は「地域デザインと住民参加」という題をつけているんですが、住民参加ということが最近いろいろ言われているんですけれど、住民参加という言葉だけが先行してきて、実質的なものはどうなんだろうか。そういう問題に対して、じっくり議論したことがないんじゃないかと思うんです。そこで、そういう問題をざっくばらんに議論してみたいという風に考えています。
今日は、まず、こちら側にパネラーと言いますか3人座っていますが、こちら側の3人で議論するのは1時間ぐらいです。大体大筋を議論しましたら残りの1時間は、皆さんでざっくばらんな議論をしてもらいたいという風に考えています。たぶん休みの日に集まって来るということは、意見を言いたい人がいらしていると思っています。1人の人が沢山言ってしまうと他の人が話せなくなりますので、だいたい最初のパネラーも一つの話題に対して5分以内で話す、それから、会場の皆さんから御意見いただく場合も3分から5分ぐらいのところで、という形で進めたいと思います。
パネラーと言いますか、こっち側に座っている人を紹介したいと思います。大迫に住んでいる建築家の丸山さんです。こちら側が新聞記者の大村さんです。私、公務員の中澤と申します。よろしくお願いします。今日は、まず最初は4つの議題について1人5分間位づつ話していって、最初の議論をスタートしたいと思います。最初は丸山さんからお願いします。
丸山(建築家):ざっくばらんに言って住民参加がいろいろな場所で、いろんな形で行なわれてきただろうと、それで、今までの流れと、もう皆さんがいろいろと御存知だろうと思うのですが、(OHP)これも題が仰々しくて「地域計画・都市の功罪と都市プランナー・建築家による -そして、その変革-」とテーマをつけています。
図1 (クリックで拡大します) |
で、そのやり方としては、我々プランナーの悪い癖としてある地域計画なりエリアを作る時に、なるべく図面上きれいになっているもの、技術的・感覚的なものだけではないんですが、きれいに描けている図面、上手く配置されているプラン、これは受け入れられやすい。ですから、住民が本当に何を望んでいるかという以上に我々の思考の中で、ある方法論なり形態論を持ってきてあるエリアをデザインしていく、ゾーニングしていく。そして、それを色分けしていく、配置をしていく。それが現実のグランドに対してどうかというものも考慮しながらやっていますが、しかし、どこかで一枚の図面に描かれたもの、それが上手く表現できていることで、それをオーナーサイドである行政の方々も「結構良いプランだな。綺麗だな」と、「よっしゃ、やってみよう」と。そういう傾向を持っているだろうと。これは、すべて悪いと言っているのではなく、悪い面が出てくるのは、こういうところではないかということです。
それから計画。行政が発意したものを専門家グループが計画を立案して施工に移っていく。この施工というのも、すべてがすべてでないにしても、政治と業界の癒着というのは当然のことながら起ってきている。やはり、これも事業発意から施工までの間、住民がほとんど関与出来ない形で、知らない形で起こってきてしまっている。我々が初めてわかるのは、事業発意から半年かその後にその事業が終わったと公開された時点、例えば何かの「オープニングセレモニーがあった、どこどこの広場を今日から開放しますよ」と言う時に初めて「ああ、何だ。あそこにあんな物が出来たのか」というのが今までのスタイルではなかったのか。で、そこで初めて住民・市民が知った時に「欲しくなかった。あんな遠くじゃ俺たちは使えないなあ。どうせなら、こんな物の方が欲しかった。」という住民感情としては疎外感であったり、行政に対する無関心さ、それが出てきたのではないか。
で、それに対してこれからどう動いていくかという大ざっぱな枠組みとすれば、やはり事業発意の段階で行政サイドが情報公開をするべきであろう。これは住民・市民がこの発意の段階から、まあ出来れば発意の次の構想段階でもいいんですが、まず、なるべく早い段階から住民・市民に情報をオープンにする。で、その形が住民参加なのか説明会なのか。或いは、ある情報公開室があって、そこへ行けば、ある情報がすべて得られる。それは、各自治体なりのレベルによって変わってくるのでしょうが、まず、そういう形での情報公開が必要である。それから、事業発意から計画・施工段階まで、なるべく一つ一つのアイテムで情報公開していくことが必要だと思います。
それをやっていった時に、この破線(図)の枠組みであれば、そこでの参加意識なり、それから一番大事なのは公共施設が作られてオープンになった、公開された時に住民がどうやって使っていくのかということ。自分たちの持ち物としてメンテナンスして活用できるのかという時に、やはり、コミュニティーの当事者責任、我々で作ったものなんだから我々で管理する、我々は有効に使っていく、そういう意味での参加意識。やはり、この流れから突然公開して「さあ、お前たち使え」では、これはなかなか参加意識は醸成しにくいんではないか。最初の事業発意の段階・構想段階から情報をオープンにして参加意識まで高めていく。で、最終的には「自分たちで使っていくんだ。」というところまで、ある範囲においては、こういう動きがこれから必要でないか。
それで、ちょっとこれは、異論もあると思うんですが、今までは海外にしても、アメリカにしても、日本にしても大規模な計画にありがちなところというのは、先ほども言いましたけれども、あるプランという物を美しく、奇麗にまとめていく傾向。例えば、ここは住宅地だ。ここは工業地だ。ここは公園地だ。で、それを大きい枠組みで作っていったがために、いろいろな施設が、本当は住んでいる人間は100M先の公園には行けるんだけれども、わざわざ2キロ・3キロ先の公園まで日常は行かない。買い物も近所でしたいとすれば、そういう奇麗にゾーニングした中での空間構成というのは、だんだん失敗例が増えてきている。都会の犯罪が起こる団地の中。本当は団地というのは部外者が立ち入らない。本当は安全な公園があって、安全な日常生活をおくるエリアとして計画されたものなんですが、逆に、外部の人間が侵入して来ない。不特定多数の監視の目が行き届かない。それが、かえって犯罪を生む形になってきてしまっている。まあ、死角が出来てきている。計画されすぎた中に。ということで、そういうことを良く論破したのが「アメリカの大都市の死と生」というジェイコブさんという人が書いた本があるんですが、このあたりのことが日本でも明らかになって来ているんじゃないか。で、面白いことにアメリカの犯罪例を見ても、今、高級住宅地で起こる犯罪が増えてきて、逆にスラムのような不特定多数の人間が右往左往している所では、かえって犯罪は起こらないと。
そういう状況から今後の動きとしては、多層構造の空間では人々の営みによりコミュニティーが形成され易い。あるゾーニングなり住み分けを考えるよりは、最近、盛岡でもコンプレックス・コンパクトタウンのような言い方をしていますけれど、やはり、或るエリアの中に人間の生活環境として複合的な施設、それから複数複層の環境・生き方を持った人たちが住んでいく、そういう空間構成を創っていく必要があると思います。その方法として、御存じの方も多いと思うんですが、パターン・ランゲージという新しい手法もでています。所謂、これは今までプロの手に任せたことを非常に細かく分析して解釈していけば、我々普通の人間にも、都市も住宅も設計出来るんだぞと。今、そういう手法も着々と見い出されつつあるというのが現状ではないか。
大村(新聞記者):私は建設関係の業界紙の記者をやっていますが、土木や建築の技術的なことについては詳しいわけではありませんので、一市民としての立場で住民参加ということについて、考えていることを話したいと思います。今の日本を考えた時に、政治でも経済でも教育でも、これまでのシステムが通用しなくなってきていると思っています。その原因というのは、いろいろあると思いますけれども、私はこれを打開していく重要なキーワードは、民主主義ではないかと考えています。戦後、日本は民主主義国家になったと言われますけれども、形の上では、そういう風になったかもしれませんが、国民の中に本当に民主主義が定着したとは言い難いような状況ではないかと思います。一人一人が主権者としての立場でものを考え行動する、そういう意味での民主主義というのは未成熟な状態ではないかなと思います。今日はまちづくりとか地域づくりということですけれども、その意味で住民参加というのは、民主主義そのものではないかなという風に思います。
公共事業についても今、吉野川可動堰の是非を問う住民投票だとか、全国的にも様々な動きが出てきている。出ていますけれども、これまでを振り返ってみると、事業の計画段階、あるいは政策決定の段階から住民が直接関与するということは、ほとんど無かったわけです。そのために、住民が何らかの意志表示をするというのは、いわゆる住民運動という形での反対運動で表面化することが多かったと思います。いわば行政なり何なりに対して住民が対立する形です。そういうことが、ずっとこれまでは続いてきたような気がします。それはこれまで、事業の計画が住民から遊離したところで決定されてきたことに起因している。そこにまた、政治家が関与したり、あるいは建設業者と官僚との癒着という問題も発生してきた。それらが公共事業への住民の信頼を失わせ、反対運動に駆り立てた原因でもあると思います。行政の側も自ら立案した計画のスムーズな進ちょくを考えるあまり、住民への説明責任を怠ってきたことが様々な問題を引き起こしてきた。これまでのシステムに問題があったとすれば改善していけば良いわけです。新しいシステムを構築するための一つの手掛かりが住民参加だと思います。まちづくりとか地域づくりとかに住民が参加するというのは本来当たり前のことであるべきで、それ以外の問題についても、やはり住民参加なり、あるいは民主主義を貫いていくということが解決の糸口を開くのではないかと思います。そういったことを取材を通して考えています。
中澤(公務員): 私は公務員なんですけれども、その住民参加というのが、なぜ最近声高に言われ始めたかいうと、一面の見方として、こういうこともあるのではないかと思うんです。今までは“不足していた物を充足させなければならない”、道路が無い、橋も無いところに橋も架けなければ
ならないというので、一生懸命役所はやってきたわけですが、とにかく大量生産をやらなければならなかった。そういう情況では、専門家に任せるのが一番てっとり早い訳で、ですから、住民参加なんか必要なかったというか、無い方が効率が良かったわけです。簡単に出来たから。だから、今までは住民参加があまり無かったんだと私は思っています。そこでは行政は、もう一身に責任を負って一生懸命やってきたわけです。住民はどうだったかというと、住民はもう「専門家に任せた方が早いよ」と、こういう形でやってきたというのが今までの方向だったんではないかなと思います。ところが、段々やっているうちに、社会全体が豊かになってきまして、もういろいろ良くなってきた。そうするとアメニティーとかいう言葉が出てきたりするわけですね。豊かさだとか環境だとかですね。今までのようにトンネルの設計をする時にどれが一番良いかなんてことは、素人は絶対に口を出せないわけです。ところが、アメニティーだったら「いや、俺にとってのアメニティーはこうじゃない」ということを言えるようになってきたわけですね。そういうものが問題になってくれば、「俺もひとこと言いたい!」という形が出てきたのではないか。ですから、そういう満足がどんどん出てくることによって住民側がものを言えるようになってきた。簡単に言えば、今までのような穴を埋めたり不足の解消をすることであれば、黙って専門家に任せておいてもよかったのですが、満足を拡大する、満足をもっと取り込みたいということになれば、「私の満足はそうじゃない、こうだ」と言いたくなった。単純に言えばそういうことではないかという感じがしています。
図2 (クリックで拡大します)
基本的にそうなってくれば、今までのような、「代議士を選んで全てを任せるような間接民主制だけでは駄目だ。直接民主制も少しは欲しい。」という感じが出てきた。直接民主制の方が、全部がその方が良いというわけではなくて、そっちも少し入れた方がいいのではないかということだと思うんです。そういうことで、こういう住民参加が広がってきたんだろうと、私はそういう風に考えています。
丸山:住民参加が十分に行なわれているかどうかということについて、直接答えられるかどうかわからないのですが、はたしてどこまで住民参加すべきなのか。出来るのか。ということで、簡単なマトリックスなんですけれども。
(OHP)あの、ここで横軸の大きいものは核施設(コア・中心となる施設)・ダム本体・ダム周辺。ダムというものは、一つの形態を作るという考え方とダムができることによって周辺環境を整備するということ。これは2つに分けています。それから、広域計画。これは盛岡圏であったり花巻圏であったりと、一つの大きいエリアでの計画と地域計画。これは一つの市町村レベル、或る市街地であったり或る農村部であったり或る近隣地的エリア。それを一つの地域計画としています。それから、もう一つ。具体的な近隣の河川・公園であったり。所謂、住民が関わっていくであろうエリア。それから、もう一つは建物ですが、住民にとっての公民館であったり図書館であったり。それから、もう一つは公共住宅。これはコーポラティブ住宅あたりも考えてみてもいいのかなと思っています。もっともっと下がっていけば公園の便所とか東屋とかでてくると思うんですが、大ざっぱにこのぐらいに分類しました。で、それに対して発意・基本構想・基本計画・基本設計・実行設計・実施・維持管理という枠組みで捉えた時、核(原子力)の建設工事に関しては住民参加というのは、なかなか考えにくいが、核施設の是非に関しては早い段階から情報公開をするべきである。ダム本体に関しても、これが今、本当に必要なのかということを我々に科学的、技術的に議論できるのか、市民にできるのかというのは非常に難しい問題で、流域の問題・用水の問題、そのへんの政策的及び需要からくるものであろうから、また、ダムの力学的構造にも我々が最初から参加するということはやり難い。 ただ、周辺整備。ダムが作られる地域の人々がダムが作られることによって何かを変えていかなければいけない。又、その出る資金で有効な物を作っていくという時には、ダム本体に対しては住民参加はやり難いけれども、ダム周辺整備に関しては基本構想の段階から何らかの形で関わっていくべきであろう。それで、広域計画。この辺の分類が曖昧なんですが、所謂、自分たちが住む問題・自分たちが生活するエリアの問題。これも発意の段階からあっていいわけなのですが、盛岡全体のこと・大迫全体のことを住民一人一人が発意するというのは非常に難しいことなので、やはり、それは行政レベルが発意したにしても基本構想・基本計画の段階では広域計画・地域計画では住民が参加できる形を取るべきだろうと。それから、逆にもっと下がってきて近隣河川であったり近隣公園、例えば、日本の公園政策というのは、だいたい何万人都市には、何平米の公園をいくつ作るという面積及びかけ算で、平米換算みたいな比率で作ってきたわけですが、そのことによって要らない所にまで公園を作ってしまった。本当は人口が密集していて公園が必要な所なんだが、エリアとしては必要ない所。そういう算定で決められた場合もあるんです。最近、特にこういう近隣公園に関しては「5坪でも10坪でも小さなエリアでも良いから、自分たちで公園を創りたいから何とかしようよ。」という動きも出始めている。そういうことで、このレベルになれば発意から住民参加が非常に重要になってくる。で、同じような考えで生活に密着した公民館・図書館というレベルでも、もっと住民の発意から積極性が出てきて然るべきであろうと思っています。
図3
それで、現在、住民参加が本当に行なわれているのかというのは、私もいくつか関わりましたけれども、行政の方針・積極的な意志が働いて、この物件に関してはオープンな公開でやっていこうということが、まだ少ないながら、やっと始まった段階ではないか。で、逆に住民の方から仕組んでいくというやり方は、世田谷あたりでは有名な話がありますが岩手県の中では少ないのかな。でも、これからは我々が発意をして行政と関わりを持ちながら、やっていくことも必要なのではないかと思っています。
大村:住民参加が十分かというと、まだ不十分だと答えざる得ない状況だと思います。これまで、国でも県でも市町村でも政策を決定する場合に、審議会とか懇談会を開いて意見を聞くという方法を採ってきました。一応外部の意見を聞きましたという形は採ってきたわけです。最近になって、情報公開がだんだん進み、県の場合ほとんどの会議は誰でも傍聴できるようになったし、会議の中身は終わればすぐにインターネットのホームページで見られるような形になってきています。問題はその審議会や懇談会の在り方ではないかと思います。懇談会や審議会の委員というのは、例えば県の場合であれば、県自らが委員を決めている。多くの場合、その委員というのは業界の代表や、いわゆる有識者を選んでいる場合がほとんどです。改善するとすれば、少なくとも委員を公募することも考える必要がある。もちろん、それだけでは限界があるとは思いますが、要は行政が立案した計画を追認するという形の審議会・懇談会にしないことだと思います。
仮に委員を公募してやるにしても、会議が開かれるのは平日の昼です。そうすると普通、仕事をしている人は応募して委員になったとしても物理的に出席が難しい。ヨーロッパなどでは夜に会議をやっている。市町村議会も夜にやったりしている所が結構あるようです。そういう所にも配慮していかなければならないと思います。審議会・懇談会の改善は簡単にはいかないと思いますが、住民の意志を反映させることは当たり前という立場で行政側が対応していく姿勢が大事です。
そういう中で、すでに試みられ、成果を上げつつあるのがワークショップだと思います。鷹生ダム周辺整備、宮守村の川づくり、平泉駅前の整備とか結構広がりを見せてきているので、それにかなり期待をしています。それと、軽米町での災害復旧事業の進め方にも注目しています。かなり大規模な復旧事業で百戸を超える住居の移転などもある。計画段階から軽米町や県の土木部も住民参加ということをかなり意識をしています。計画に住民の意見を反映させるため懇談会のようなものも作りましたが、会議は日曜日に開いている。住民の意志を反映させようという姿勢が感じられて好感を持ちました。そういう積極的な行政の姿勢が広がっていけば量的にも広がるし、質的にも中身が濃くなっていくというか、そういう方向に進んでいくのではないかと期待しています。
中澤:これは
(OHP)住民参加をどういう風に考えるか、シェリー・アーンスタインという人が書いた「住民参加のはしご」いうものですけれど、住民参加は8段階あると言っています。まあ、これはこの人が考えているので、勝手に言っているだけの話なんですけれども、8段階あると。最初は「あやつり」だと。「あやつり」とは何かと言うと、協議会・委員会のメンバーとして入れるけれども、実は事務局がちゃんとものを決めておいて「よろしゅうございますね。」「はい、そうです。」という形で、住民参加をやりましたと、こうゆうのを「あやつり」だと言っています。次に「セラピー」なだめすかす。3番め「お知らせ」。4番目「意見聴取」。意見を聞くけれども別にそれを実行に移さない。5番目「懐柔」、ある程度決定に力を持ち始めるけれども最終判断は権力者側で保留する。真の住民参加は次の6番からだと言っています。6番目は「パートナーシップ」。7番「委任されたパワー」、或る部分は決定権を住民側に与えますと。最後の8番目は「住民によるコントロール」、これは住民主体という言い方を日本ではしているわけです。住民側が物を決めて何かを始める、それをさらに役所にやらせる。それは住民参加ではなくて役所参加だと言うわけですね。住民側が発意して役所が参加するという言い方があるわけです。
図4
こういう風に住民参加にもいくつかの段階がある。日本はどの辺までやっているのかとの言うとですね、私もまだ良くわからないのですけれども、この4番目の「意見聴取」までは、かなり来たのではないかなと考えています。今までは、あまり意見聴取もしていなかったかなという気がしていました。実際やる気になるとどこまで聞くかというと面倒なものですから、ある程度聞いたら「聞いたよ。」という形をとってきたのかなと。しかし、最近はちゃんと真面目に聞いて、ある程度プランに反映するようになってはきたと思います。次の
「パートナーシップ」。お互いに考えましょうというのは、少しづつやり始めて来ている。まあ、今日は関係者も来ていますが、実は宮守川の河川計画をやる時に住民みんなで考えましょうと“ワークショップ”というのをやった。さっき大村さんが言った、昼間やったらなかなか来れないので、これは夜やったんですよ。夜やって、みんな来て図面を見ながら、みんなで話し合ったんです。こういうワークショップというのをやったんですが、このぐらいになると住民側からも意見も出せるし設計案も自分で出せる。こういう「パートナーシップ」の前段階ぐらいまで、ここまではかなり浸透して来たのかなと思っています。こういうワークショップというようなものを全ての事業でやれるわけではないとは思いますが、徐々に浸透していくのではないかと思っています。
図5 宮守村でのワークショップ
丸山:住民参加と言いながら何があるのかと言った時に、住民参加の具体的な行動として計画・立案・発意と
いうのがあるだろうと思います。こういう物が欲しいと意見を述べる。或るプランに対して提案なり提言をする。それが次の段階として、もう一つの段階としては、計画・設計までは出来るだろう。これは専門的な絵(設計図)をつくるということではなくても、小さな公園であったりエリアであれば、自分たちで作っていくということも出来るだろうと思います。そして、最終的には維持管理まで。
図6 専門科の役割
実は住民参加と言いながら、(OHP)このメッシュが行政、白丸が住民、そして、黒丸が専門家なりプランナーであるという考え方をしています。これがない場合というのが今まで多く起こっていたのではないか。行政が意図したものに対して 「住民の方々が何かアイデアを言って下さい。意見を言って下さい。」というのが今までのやり方だった。で、今、この新しく出てきている住民参加であったりワークショップであったりした時に、その住民と行政の間を繋ぐ役割が、専門的知識を持ったりコントロール能力を持った人間として必要になってきているのではないかと考えています。さきほど、宮守村の例にもありましたように、プランナーなり専門家なり、県の外郭団体が間に立って一緒になってやっていくということが起こっている。
では、この問題を専門家の役割ということに転化しますが、本来ならば、私も建築をやっていますが、コンサルタントが行政と市民の中間の間に立っているのが理想の姿ではないか。そうなった時に専門家と言いながら、どこからも資金が出てこず生活が成り立たなくなってしまうのではないか。ちょっと具体的な話になってしまいますが。次に、現在最も多く行なわれている仕組み、現状において最も可能性が高い仕組みは何かと言いますと、行政が今、多くの公共事業を仕掛けているわけで、行政が計画をしていく段階でワークショップなり住民参加なりの手法を取り入れていく時、行政が或る専門家を契約関係で雇って、彼に住民とのパイプ役をやらせるというコメンテーターであったり進行役であったり、住民が描いているイメージを図面化するとか。逆に、行政が描いているものを図面化して市民の方々に見せるとか、そういうパイプ役として出てきている。そういうところでは、現在、中立と言いながらも行政サイドの立場をとらざる得ない。これが良いのか悪いのかは別です。もう一つ昔のスタイルとすれば、住民が雇ったというか、住民の中にいる専門家、弁護士や建築家やプランナー。彼らが住民サイドから行政に訴えかける。これは多くの場合、たぶん反対運動のような形で起こってきたのではないか。そこに、或る大きな問題があるから革新的な専門家なりコンサルを、行政と戦わせるというタイプが、昔からあった或る専門家の立場ではないかと思います。
次に、これからどうあるべきなのかと言う時に、私なりに最も理想であろうと思うんですが、行政と市民と、もう一つ独立出来る組織体。これがNPOなのか世田谷タイプのファンドなのかファンドみたいなものなのか。これは地域によって、いろいろな特性を持った形態で良いんだろうと思うんです。県や市町村がグルーピングをして、特別な財団なり何なりを作るというのが一つのタイプなんですが、そういう行政と市民と一つの独立した中間的な専門家集団、ここがある。プランナーなり専門家なりを持っていて、力としても発言権としても権利としても共通の者。中立の立場に立てるような。ただ、そういう立場に立って仕事が出来るようになれば、もう一つ上のランクの住民参加も出て来るのではないだろうかと考えています。最近、仕事が減ってきて、所謂、コンサルタントがワークショップを仕掛けたり、住民参加という歌い文句で仕事をやってきている。これは、逆にコンサルタントがこれとくっついた形で、又、昔の環境影響評価みたいな形で事業を進めるがための、免罪符的な住民参加になりかねない危険性があると。すべてがそうではないですよ。そういうものを排除する意味でも、こういう中間的立場のものが岩手県の中、各市町村の中にも出来てくれると良いのかなと思います。その時、初めて市民の中から「こうして欲しい。ああして欲しい。」ではなく、具体的なプレゼンテーションが出来る力が出てくる。その中間的立場が、これからもっと大事になってくるのかなと思っています。
大村: 発言権がどこまでかということですが、それを考える上で、先ほどから出ているように可能な限り情報公開がされているのかということが、前提だと思うんです。発言したくても中身についてきちんと公開されていないのであれば、そもそも発言することすら無理なわけです。そこが行政の姿勢に問われているのではないかと思います。
地域づくり・まちづくりということに関して言えば、基本的に発言権を制約する必要はないのではないかと思うんです。ただ、そうなると計画の中身についてだけでなく、そもそも計画自体の是非にまで、意見が及ぶ可能性が高いことになり、行政としては対応が大変になるかもしれません。でも、それはそれでいいのではないかと思うんですよ。計画の是非についても住民の意見を聞く。計画に住民すべてが反対ということではないでしょうから、住民同士が計画の是非についてお互いに意見を戦わせることになる。そうなることが、住民参加の本当の意義につながっていくのではないかと思います。
要は、住民の考え・意見について、面倒くさがらずに行政がどこまで受けとめられるか、懐の深さというか度量というか、そういうものが必要なんだと思います。そういう時代が来ているのではないかということを感じます。どうしても公共事業を意識した話になってしまいますが、住民が自ら納めた税金で、自分たちが住む地域のまちづくりが進められるのに発言権が保証されないとすれば、人権侵害にもつながりかねません。
中澤: 私、この「市民・住民の発言権はどこまでか」ということで市民と住民を分けた意味は、住民というのは近隣住民です。近隣住民が自分の家の前に道路が出来るとか、家の近くに公園が出来る時に、何かしゃべりたいと言うのは当然の権利だと思います。
それでは例えば、これが大きな問題、長良川の河口堰の問題の時に東京から来て発言したのはどうだと議論になったわけですがそういう場合はどうか。そういう場合は市民ですね。つまり、一般市民として発言したわけですね。「お前は遠くから来て、ごちゃごちゃ言うな」と、こういう話が出るわけなんですが、基本的には「私は納税者なんですから、みんな発言権はあるのだ」と言うことになると思います。しかも遠くの人の方が良く見えるという場合が多々あるのではないかと思います。ですから、発言権というものは、やっぱり制限するべきではないと思います。ただ、発言の立場というのは「家の前の道路でうちの子供が、ここでよく遊ぶから」ということで発言する人と、納税者として「これは、やっぱり税金の使い過ぎじゃあないか」という人では、その発言の位置付けはやはり違ってくると思うんです。別のものとして整理をして取り上げていくべきだなと思います。そういう意味では発言権というのは誰にでもあるのだと思います。
また、内部の人はしがらみがあって言い難いというのがよくあるわけです。田舎に行けば行くほど、誰かが言った発言に反対は出来ないと言う場合がよくありますので、そういう意味で世の中をいろいろ変えていくというのは、わりと外から来た人がポンと言うとポンと変わっていくということがあるわけで、そういう意味では大いにいろいろな人にどんどん言っていただくというのが良いのではないか。それをどう取り上げるかは、それを取り上げる側がいろいろ考えればいいと思っています。
次に、発言権がどこまであるかというのは、議会との問題があってですね。所謂、間接民主主義で議会で出したのと直接意見を言ったのは法的にどうあるのかと言うと、いろいろあるわけです。まあ、そのへんは後で皆さんの意見もお聞きしたいと思います。
丸山: 効果というのは、これからいろいろ見えてくるのだろうなと思うんですが、私が経験したいくつかの範囲では、とにかく専門家しか見ないA1の、こんなでっかいダムの図面であったり平面図であったり、そういうものを小学生もおじいちゃんもおばあちゃんも見れるお父さんも見れる。多分形になるまで見えなかったものが、どういうプロセスを踏みながら或るダムが出来ていくのか、どういうプロセスを踏みながら道路が出来ていくのか。そういう基本的なプロセスを共有するという意味では、お互いに非常に効果があるのではないかと思います。
それから、いろいろな地域で「自分たちが関ってきたものだから自分たちでメンテナンスしていこう。」とか、逆に、環境に対しても住民に対しても協調して生きていかなければいけないという、所謂、住民サイドというものが個人個人の考え方が、企業レベル・集団レベル、逆にそれは行政レベル、ある意味では目覚めてきた住民・市民たちがいろいろな範囲に散らばり始めたという意味で、これからどんどん期待できるのではないかと思っています。
大村: 今、行政の透明性とか公平性とか言われていますけれども、住民参加によって、今までよりオープンな形で事業を進めていくことがそれを実現していくことになると思います。住民自身が計画段階から参加するということで計画の中身もよく分かると思いますし、それに自分の意見も反映させることが出来るとすれば、事業そのものについての期待や信頼が高まるし、行政に対しても、これまでとは違った形での信頼感が高まっていくのではないでしょうか。これまでは、行政が責任を負う、何か不都合があれば行政が責任を負うという形だったのですが、住民参加でやることによって責任の分担ができる。行政と住民で責任を分担できるのではないかなと思うんです。その計画を住民が判断していく段階でメリットもあるかもしれないけれど、いろいろなリスクもキチッと情報提示する。そうした中で決めていくとすれば、いろいろ不都合が出たとしても、それは住民自身も責任を負うことになり、行政の責任を一方的に追及するというようなことにはならないでしょう。そうなれば行政としても、今までと比べて負担が軽くなるのではないかと思います。
それから、住民の側からすれば、先ほど丸山さんが言ったように、住民参加でやることで自分たちの地域に愛着とか誇りも出てくるでしょうし、出来上がった施設に対して親しみも湧く。つくりっぱなしというわけにはいかないし、維持管理の問題が必ず出てきます。そういうことにも、これまでに比べれば自発的に参加するようになっていくことが期待されます。それから、住民参加の取り組みを通じて、住民に地域の構成員としての自覚が生まれていくのではないか。コミュニティーが失われてきていると言われていますけれども、コミュニテイーを再生する可能性が広がるのではないかなということに期待があります。何でも昔が良かったというわけにはいかないけれども、昔のコミュニティーの良い面を再生していけるのではないかと思います。そして、同じテーブルで互いの個性や価値観を尊重して住民同士が議論し合えるようになれば、最初に話した古いシステムに代わる新しいシステムが構築されていくだろうと思っています。
中澤: 住民参加の効果というのは、よくいろいろな所で言っているのは“合意形成”だと言うわけですが、“合意というのは、みんなが賛成すること”というイメージを持っている人もいると思うのですが、本当はそんなことあるのだろうか。実は私は無い事の方が多いと思っています。様々な人が集まっての住民参加で、「こういう形が良い」と一本にまとまることは殆ど無いと思います。何か作ろうと思っても利害が必ずありますから、みんなが賛成するということは無いのだと思っています。ですから、みんなが賛成という意味の合意形成は私は出来ないのだと思っています。では何のために住民参加をするのか、住民参加をやれば何が良いのかと言えば、“納得”出来るということだと思います。
人がいっぱい集まって議論を戦わせる、意見のキャッチボールすると、例えば「私は自然保護が大事だ。イヌワシが大事だ。」と言っていると、こちらからは「いやいや、イヌワシのためにトンネルを掘るのか。」とか「イヌワシより我々の生活の方が大事で、出稼ぎに行かなくていいように何とかしてくれ。」とか「経済が大変だ。」というような話は必ず出てくるわけです。ですから、例えば、今日なんかいろいろな人が集まっていますが、今までは自然保護なら自然保護の人ばかり集まるわけですね。そうすると「自然保護賛成」と言えば「はい、賛成」となるわけですが、いろいろな人が集まると、自然保護側の人も開発側の人もいろいろな人もごちゃごちゃいて、世の中いろいろな意見があることがわかる。世の中いろいろな意見があって。世の中というのは、なかなか大変なものなのだということを再認識する。そうすれば、自分の意見が通らないのも「ああ、しゃあないなあ」と“納得”する。納得すれば、例えば道路が出来ても何が出来ても「これはしようがないことだ」と、しようがないというのも変ですけれど、「まあ、そういうやり方もあるのかな。これはしようがないかな」と考えて、次にはどうしたら良いことが出来るかということをいろいろ考えることが出来る。ところが、勝手に決められると「何だ!我々はみんな反対なのにあれが出来てしまった。」と思ってしまう。思ってしまうと、どうも面白くないわけですから、道路を歩いていてもゴミをポンと捨てるようになると思うのです。ですから、簡単に言ってしまえば“納得”するということが住民参加をやることの効果だと私は思っています。
■会場を交えた討論
司会:以上パネラーの3人が意見を出し尽くしたという訳ではなく、サラッと意見を言った訳なんです。今日はシンポジウムなんて仰々しい名前をつけていますが、まあ、勉強会みたいなものですから、皆さんも意見を戦わせていただきたい、いわゆる市民参加をやっていきたいなと思うわけです。「住民参加」について、我々が話したことに対してでもいいんですが、会場からも何か意見がありましたらお願いします。
田村(風景計画家):私もこの会の仕掛け人側なので自分たちのスタッフを持ち上げてはいけないのですが、はからずも悩んでいる問題の話の前提がすべて出たような気がします。もうちょっと具体的な話を入れた方が議論しやすいかなということで、その口火として私の活動の一部と感想を簡単に話させてもらいます。私は現在北上川の上流、西根町の松川沿いに住んでいますが、5年前まで東京におりまして、そこで先ほど丸山さんが言っていた建設コンサルタントという立場で専ら行政側の仕事をしていました。それで、仕事によっては中澤さんが言ったように委員会の住民懐柔用の資料づくりなどの仕事も実際にしてきました。
今は完全に住民という視点に立って風景や自分の住むまちづくりを見直す作業をしています。例えば「どうしたら住民と行政の思いがうまくフィックスするか」「本当に住民が望み残し守っていかなければいけないものは何か」などを専門家の視点で拾い上げ、「風景の生命(いのち)」として甦生し、まちづくりに活かす方策を考えています。
具体的な活動としては、現在見捨てられた身近な巨樹、川の自然や津軽街道の歴史遺産、個人の持っている隠れた文化資産を発掘保全し、まちづくりに展開する活動をしていますが、その中で痛切に感じることがあります。たまたま今週の月曜日(四月十七日付け)の岩手日報の紙面批評欄で書かせていただいたのですが、岩手ののりの悪い風土、県民性という問題があります。まちづくりには住民の「のり」が非常に大事だと思います。東京のまちづくりの仲間からは「なぜやりにくい東北に行くのか?行くなら北海道か九州が良い」と言われました。実際来てみてこの気風は確かに大きな壁となっています。
しかし、例えは悪いかもしれませんが薪を燃すにも湿った生木を乾かすところが時間がかかっても大事なように、実際の活動は3年ほどですが、マスコミ、中央行政、少数ですが内外の積極的な仲間の火を借りる事で思ったより早く乾き始めたような気がします。逆に本格的に燃え出せば消えない県民性に期待するところ大です。
もう一つの大きな問題は、丸山さんが言われたようにこれほど環境問題が日本の大きな課題となっているのに、環境保全の専門家として、またまちづくりの中立的コーディネーターとして食べていくのは現状では非常に難しことです。これは個人的には切実な問題ですが、経済的システムや環境づくりに対する価値観も変わらないと解決しない重たい課題です。
これからどうやって活動を展開していくかは暗中模索ですがこれからの議論を参考にさせてもらいながら地道に考えていくしかないと思っています。
司会:今、お話になったのは田村さんと言いまして、われわれ勉強会をやっている仲間の一人でして、西根町の方で地域づくりをやっておられる風景の専門家です。
会場からの発言・男性(A):私も某公務員ということで、個人として発言させていただきますけれど、一番住民参加で気をつけなければならない点、気にしている点をちょっと申し上げたいなと思っています。まちづくりとか都市計画とかいうのはですね、こうゆう面の話から線の話になって点の話がある。で、住民参加というのは、常にそれを考えていなければならないのではないかと思うんですね。と、申しますのは、それによって行政と市民の重みが、責任の重みが変わってくるのではないかと。つまり、面だとか線だとか点だとかになるにしたがって市民参加における住民責任というものも少しづつ増えている。逆に面的なものも、行政として最終的に責任を持たなければならないのではないかという風に思っていますで、常にそういうことを頭に入れてやっておかないと市民、ええと、3番めの「市民・住民の発言権はどこまでか」というのがあるんですけれど、それによって、その発言権の重みというのが変わってくるのではないかという風に思います。
それと2つめなんですが、これは或る、あの千葉の方でやっていらっしゃる方の本を読んで、私もちょっと思ったのですけれども、市民参加が、先ほど丸山さんが「今までの例だよ」と言って一番最初に上げたんですが、その専門家なり委員会、そういうものに単にとって変わっただけになっては大変だということで、そういうことを常に頭に入れながらの住民参加を考えなければならない。自分たちのグループの立場というのは何なんだということを常に頭の中に入れておかなければならないのだと。で、これも或る蔵の町で有名な所で、やはりNPO的な方たちと話をしたのですけれども、結局その人たちだけが段々孤立してしまっていって、市民、そこに住んでいる人たちとの間に格差が出てくる。で、「自分たちのやっていることが一番正しい。それについて市民がおかしい。」という風な気持ちに段々とって変わると、これは大変だなと。で、そういうことを常に考えながらやらなければならないではないかなと思います。
それから、もう一つだけ、今まで市民だとか町の人たちだとかが町会で組織を作って、そこの人たちと話をしてやってきた。そこの町の人たちが代表として政治家を選んできた。それが良いのか悪いのかではなくて。最近は、町内会の役員をやっているのですが、町内会に出ても文句はいっぱいしゃべるという組織になってきた。町内会が盛んなところでは住民参加が出来難いのではないかなと。逆に、町内会なり何やらが集まらないという人たちの方が「そんなの関係ないよ。俺たちだけでやろうよ。」という感じがします。それが良いのか悪いのか別として、時代の流れでどうしようもないのだろうけれども、そういうような所で住民参加の差というものを感じたような気がします。
中澤:私は今の御意見の中で最後のやつですね。ちよっと興味があるのですが、“町内会がある所は住民参加が進まない”という話。あの、大村さんがさっきコミュニティーの再生という話をしたのですが、実は、コミュニティーというのは、地域のそういうしがらみというのはみんなで嫌だと言ってきたんです。特に田舎ほど嫌だって言ってきたんですね。そもそも「都会の生活がいいよ」と若者が出てゆくのは、田舎の地域のしがらみが嫌だから、それを切り離したいと思って来たからだと思うのです。或いは、本来みんなでやってきた水路の泥ハネをしましょうというのが嫌だから、公務員を雇って役所にやってもらうシステムを作ったわけですね。ところが、その住民参加だと、又、元に戻すのかという議論があるわけですが、私はここはちょっと分けて考えなければならないと思います。
今まで地域のコミュニティーというのは何て言うんでしょう、地域のしがらみみたいなものだったんですね。もう、そこに生まれたからには抜けられないと、誰も抜けられないと。ボスみたいなのがいて長老がいて、或いは自分の親父のよく知っている人が向こうにいれば、その人に盾つくことは出来ないわけですから。それに欠席するということすら出来ない。棄権することも出来ない状況で参加しなければならない。で、非常に上手くいっているように見えるのですが、中では、すごくどろどろとした不満も多かったと思うんです。
これに対し、今話しているような、新しい住民参加というのは自由参加にしなければならない。「参加は自由だよ。」と、「私は行政に任せたい」という人は任せればいいんです。で、「俺は今日言いたい。」という人は来れば良いという形で、昔とは違う形を作らなければいけないのだと思うのです。ですから、昔と同じように町内会の会長さんをトップに住民参加をしようというと「町内会主催だから、みんな出て来なさいよ。」と回覧板を廻して、「あそこの家は出て来た。あそこは出て来ない。」とチェックするようになる。これは、もう今までと全く同じことになってしまう。「そんなのは嫌だ。」ということになると思うのです。だから、これからの住民参加は新しい形の、今までの町内会或いは村のしきたりと違う形の住民参加を考える必要があるのではないかと私は思います。
会場からの発言・男性(B):あの、住民参加なんですが、ほとんど今までのやりとりをうかがって感じたことは住民参加の意味をですね、実はみんながいろいろな思いを持っていて、違う理解をして一つの議論をしているように思えるので、そのへんをちょっとはっきりさせないと、多分、議論の訳がわからなくなるおそれがあると思うので、ちょっと発言するのですが。一つは行政があって住民がある。住民参加ということに関して言えば、行政から見た住民参加という言葉と住民から見た住民参加というのとがあって、多分、今の段階では使い方というか、住民参加というのを、言葉をどう使うかっていうのは、行政側が使う時と住民側が使う時と大分違いがあると思うんですよね。行政側から見れば、極端なことを言えば免罪符的に「住民の声を聞いています。」と、アリバイ作りのための住民参加もあれば、自分の今までやってきた決定権と言うか、権限を「住民の方々にお任せします。」というところまで、かなり差があるでしょうし、住民から見た住民参加というのは、単なる反対ですね。「それは嫌だ。」と。住民参加・意志表示の方向でしょうし。「もう自分たちにやらせてくれ。」と、住民参加が住民主体というのと差があると思うんですよね。ですから、見方によって、全然違うことと巾があることをよく理解して議論しなくてはいけないのではないかな。その時、住民と行政の立場が、さっき某公務員の方が、私も某公務員ですけれども。やっぱり、その、役所からの見方かもしれませんけれども、行政というのは最後に責任をとるのは我々だと。例えば、少なくとも議会から「それで良いのか。」と言われた時に、ちゃんと説明はしないといけない。世の中に説明をしなければいけない。或いは、マスコミからの批判に対応しなければいけない。責任は行政・役所が負ってきたという自負があるんですね。住民参加は結構だけれど、じゃあ、住民の方々は責任を持ってくれるのですかということと、住民の方々は住民参加を議論する時には責任を伴うのだということを併せて考えないと、単なる反対運動とかいうことに終わって、結局、何の効果もないということになりはしないかというのを質問させていただきたい。
それから、もう一つは住民参加の中身なんですけれども程度によって差があってですね。単に要望する。或いは、意見を言うというのも住民参加だし、もうちょっとつっこんで従来行政がやってきた政策決定に関与する。例えば、審議会委員になるとかですね。そういう形だってそこに我々のグループの代表が入って、主婦の意見を反映するとかというのも住民参加の一つの方法だし、もう一つは行政が今までやってきた権限の一部を委ねると。最後には行政に任せないで自分たちで全部やってしまう。そういうのがあると思うのです。だから、住民参加というのは、どのイメージを持って言っているのかというのを、あっ、別にいちいち区別して議論する必要はないですが。巾があるということを、認識を持たないと。
その時に、ずっとパネリストの方々の議論で、最後に中澤さんがチラッとようやく言われていたのですけれど、議会の存在というのをずっと言葉が出てこなかったんですね。行政があって専門家があって住民があって、その時に何故、住民が選んだ議員さんというものを、住民の声とか住民の考えを、いかに反映させるかという手法の中に議員を使う、議員を通じて議会を通じて、その声なり考え方を反映させるという手法がもうちょっとまず基本にないのだろうかという気がします。それは多分、今の議会の実体で、いや、まず、よくわかりませんけれど、議員さんに頼んでも駄目なんだとかいうのでお互いにもう諦めがあって、それを前提に議論しているのかもしれませんけれども、やっぱり、そもそも議論した時に、その議会というものをもっと使うのが、今の世の中にあるのは議会的民主主義なんですから。それを否定するところからスタートするならまだわかるのですが、それが在るのに、それに目をつぶって議論するのはちょっと抜けているのではないかなという気がいたします。
丸山:まあ、今の意見なんですが、結局、議会を信頼していないというのではなしに、先ほども、こちらから出たんですが、コミュニティーの質ですよね。ある程度、市民として住民として自立できて、個人として選択した議員、もしくは集団組織であれば、そこに或る意見を委ねて代弁してもらうという形も可能なんでしょうが、残念ながら国会も含めて地方議会も含めて議会というのは、悪い意味での村社会の構造、あの、これ、田舎だから村と言っていません。都会にも村社会はありますから。の中で選ばれた、選ばれたというより仕組まれたと、もう極論してしまいますと、そういう議会に現在はなっている。議会を変えていくためには市民が変わらないといけないし。その、恐いのは、物というのは1年2年待っているとドンドンドンドン出来ていってしまう。特に私の住んでいる大迫町の事例を見ていると、単年度事業で2つ3つ4つとポコポコポコポコ物が出来ていく。当然議会も承認しているで、知らなかったのは住民だけだったと。じゃあ、「住民が選んだ議会なんだから議会が承認しているのであれば、お前たち文句言うな。」と。まあ、それは一つの議会制民主主義の答えかもしれないのですが、やはり、その信用できないものを信用できるまで育てるよりは、ちょっと逃げかもしれませんけれど、もっと直接的に参加出来る手法なり方法があれば、そこから変えていくのも一つの近道ではないかと思っていますね。
それで、先ほど住民参加と専門家の考え方も出てますが、すごく大事なことはコミュニティーと言っても、住民参加の具体的な社会の成熟度であったり、ある程度の市民・住民のコモンセンスのようなもの、これを持っている必要があるのか。それで先ほど村づくりで蔵の町ですか?ある町づくり団体が孤立化していく。で、自分たちは良いことをやっているつもりで、どんどん変革していくとそれが市民と離れていってしまう。じゃあ、彼らは市民の合意を得るまで、町づくりは合意形成だと言いながら待っていて良いのかっていう気がするんですね。
もう一つ難しいのは専門家といわれる時に、言葉で簡単に言ってしまったのですが、行政サイドに囲われている場合が多いのですが、専門家の個人の社会観というか人生観というか正義感というか、立場の取り方、こう考えていくと非常に社会的行為ではあるのですが、ある意味非常に個人的な行為なのではないか。先ほど、大村さんが言われた住民参加とは何ぞや、と言う時に民主主義の根幹ではないかというような発言をされていましたけれど、じゃあ、ひょっとしたら日本の中に民主主義が育つのかという、それを案外町づくりという、敢えて施設に拘わらない、自分が住む環境なり空間づくりを自分たちで創っていける市民・住民になれるのか。なれた時に初めて、日本でも民主主義が、やっと育ったのかなと感じられるという気がします。そこでも戦後、日本の民主主義は押しつけだと言われてきた汚名が、果たして本当の民主主義を手に入れていくのかという、なんか試金石みたいな、新しい日本でしか我々でしか掴み得ない民主主義を探る方法論が隠されているのではないか。ちょっと大げさに言うと。私はそんな気がしています。あくまでも個人的に。
会場からの発言・男性(C):あの、盛岡市の西松園という所で公園づくり、140坪ぐらいの公園を1年ぐらいかけてワークショップを3回ぐらい開いて、今、公園を作りつつあります。私自身は、さっきで言う3角形のNPOというような位置づけにあるのではないかなあ。「町づくり応援隊」というきわめてファジーな組織に、組織じゃないな。ファジーなところにいてですね。住民の方々とそれから、行政とですね。それから、まあ、いろいろな協賛企業なんかを募って安く公園を作ってしまおうというような試みをやっているんです。今度5月21日に住民たちと多くの人々を集めて公園を一気に変革しようということを、今、プランニングしています。
で、今の議論の中で私自身、この1年ぐらいの僅かな経験ですけれど、あの、ひとつ視点がなんか違うなあという気持ちで聞いておりました。というのは、みなさんやっぱり、住民というのをなんか上から見ているような感じがしております。これはやっぱり立場立場が違うのではないかなあと思うんですが、住民というのを啓蒙するような立場で、おっしゃっていないかなあというのをフト感じました。で、実は私共、最初の頃西松園の町内会と接したというのは、経緯は市が媒介となってお見合いみたいな形をして、熱意のある町内会・組織の人たちに接して「ああ、この人たちなら一緒にやっていけるんじゃないかなあ。」と思ってその地域に入ったんですが、最初の頃、確かにワークショップという手法を使って公園を作りたいんだと言った時に、僕らはなんとなく啓蒙のような立場で入ったんです。ところが、まもなく、半年ぐらい経つうちに、それは、啓蒙というのは非常にまちがいであるということを気づかされました。そこは、逆にですね。さっきの公務員の方がおっしゃったのと違って町内会の組織がしっかりしているんですね。というのは、役員の方々が、極めてレベルの高い役員の方々だったんですが、自分たちの地域は自分たちで創るのだという思いを持っておられました。逆に、そこに私たちが「こうやったらいいじゃないか。ああやったらいいじゃないか。」という風な、いろいろ提案をしていったらですね。「そんなことは、自分たちでやりたい。」と、「いずれ自分たちの地域は自分たちで創るのだ。」というような発言をされておりました。で、あの、それを見るとですね。それの話をして、ずっと付き合っていると非常に対等な付き合いが出来て、お互い敬意を払ってやっているような感覚を、今持っております。
あの、住民参加という言葉はファジーな部分で、マスタープランの住民参加と、それから、すごくエリアの、もうちょっと中間エリアぐらいの。例えば、河川流域とかですね。河川流域はもっと大きいか。そういうようなプランと、それから、地域のマスタープランと、それから、もっと点のですね。1個の僕らの物。公園のすぐ側の住民たちを集める100戸か600戸ぐらいの範囲の住民参加とは全くレベルの違うことではないかなあと思います。で、その中で僕らがやっている、そのちっちゃいレベルの住民参加ではですね。あくまでも対等であるということが原則であるというような気がしております。それから、やっぱりエリアエリアで手法は随分違うと思うんですよ。例えば、農村の住民参加のあり方と。例えばこんなこともありました。「自分たちでやるのは面倒くさい。」要するに、「上から何か言われて自分たちはそれに従うのが良いんだ。」っていう人たちも、やっぱりいるので、そういう場合の住民参加はどういう形が良いのか考えるべきだろうし、そうじゃなくて自分たちでやるんだという風な素地のある所の住民参加は、それは又、違うような気がします。なんとなくそれらをこの場の議論の中でいっしょくたにするのはどうかなという気がしますし、それから、住民の方が住民参加と言われた時に、どういう風に思っているのかっていうのを、逆にその中に入られている方々から聞きたいし、今ここに住民の方もおられると思うのでその方にも、最初に住民参加と言われた時にどういう風に思われたのかというのを聞いてみたいと思います。何かちょっと、とりとめもないですが、お話を終わります。
中澤:私は意見に今の反論したいのが一つあるんですが、あの、都会の住民参加と田舎の住民参加は違うと、こういうお話があった。実は私も最初そう思っていたんです。教科書で見て東京の世田谷区でこんなのをやっているから、その、何々村の山奥では違うだろうと。ところが、行って話をしてみると都会は立派なことを言って田舎は言わないかというとそうじゃあないですね。田舎の山奥の人でもしっかり意見を言います。今は。そりゃあ、その意見を出してもらうテクニックも少しはありますけれども、ちゃんと話せばちゃんとみんな、田舎のおばさんが「いや、私はこうして欲しい。」とか、どうこうして欲しいとかはっきり言うんですよ。ですから、私は都会と田舎は違うというのは、それは思い違いではないかと思います。
会場からの発言・男性(C):全く違う。全く違う。今、中澤さんがおっしゃっているようなことを私は言っている。
中澤:あ、そうですか、それは失礼しました。ですから、私は基本は同じではないかと思うんです。もう一つは、大きいのから小さいのまでいろいろあるんです。それもいろいろやり方もあるし、いろいろ違うんですけれども、住民参加の基本は何かと言ったら、自分のことは自分で決めたいということだと思うんですね。そういう意味では、私は基本は同じだと思うんですね。その間に細かい議論をしだすとどんどん分けていかなければいけない。そりゃあ、確かにおっしゃるとおりです。先ほども、おっしゃった方もあって、面と点は違うのだと。それは段階が違うと。勿論それはずっとあるんです。或いは、公共事業をやる場合と地域での地域づくりのやり方と違うんですね。いろいろ全部あります。それで、今日は一番最初の会だから、いろいろ大ざっぱに議論してみようというのが、今日の会なんです。ですから、おっしゃるとおり。そりゃあ、私たちもそう思っています。いろいろなやり方、或いは手法だって違うし、いろいろな形があると思っています。
それから、さっき、こちらの方がおっしゃった時に議会の問題。私はそれは、住民参加の話をする時にいつも議論になることだと思うのですが、最近の朝日新聞にずっと連載して載っていましたけれども、議会というものと住民参加はどうなんだって。議会が我々の声に耳を傾けるようなことがあれば、住民参加はいらないわけなんです。それで良いと思っていれば我々は住民参加はわざわざやらなくて良い。今、世の中で住民参加がこんなに出てきたというのは、議員に何年かに1回投票して、後は全部お任せしますっていうシステムでは、社会が上手く機能していかないということがあるのではないか。だから、議会を否定するということではないんです。議会も、そりゃあ、勿論、大きなものは議会で決めなければならないと思います。ただ、細々したところに意見を言う場所があっても良いのではないかと思います。だから、大きい手法もあれば小さい手法もあれば中間の手法もあれば、その意見を言う道筋は、いくつもあった方が良いと思うのです。ところが、役所は確かに面倒くさいですよ。そんないろいろな所から出てくると、役所は面倒くさいかもしれませんが、その方が社会が良く動くのだろうと、私はそう思っています。
会場からの発言・男性(D):あの、住民参加が何故必要かって、僕が考えるのは、作ることではなくて持続を可能にすることだと思うんです。作ることよりも、それを維持・管理・運営することの方が莫大な管理費がかかると。それであれば、誰がそれを管理・運営していくかということをですね。最初の目的として捉えるのであれば、だからこそ、地域の人たちが作って運営していけるようなシステム作りと意識を調節していくことが必要なのかなと思います。であるとすれば、規模によってはそのシステム作りと意識作りの方法は、全く異なってくるのではないかと。まあ、先ほどの金澤さんの発言だったわけです。我々の取り組んでいる140坪の公園であるとするならば、もし、地域の人々と我々が対立して、これが崩壊した後でも、我々の手で維持・管理していこうという決意が出来るんですけれども、「中津川原の整備をしろ。」と言われたら、我々は出来ないなと。で、あるから、僕の目的、住民参加の目的というのは、やっぱり、維持・管理・運営を十分可能なものにしていくと。それがなければ、これからの社会作りは成り立たないのではないかなということが、一番の目的ではないかと思っています。
丸山:あの、こんな場所でしゃべっているから、なんとなく住民参加というものをお仕着せみたいな形、まあ、或る定義づけをして住民の方々に啓蒙するとか、何かそういう風にとられてしまうのはしようがないと思うのですが。逆に、私自身が大迫の住民になった時、結局、行政さんの方から私たちに接触を、「何かプランがある、計画がある、だから、一緒に考えようよ」というようなアプローチは無いわけですね。そうするとその時は、私はまさに住民として、住民参加という言葉は使わないけれど、仲間を集めて「情報を教えて欲しい」と。で、「今こういう計画があるのだけれど、中身は何なのか」ということを積極的に働きかけようとしているわけです。だから、それはまさに、言葉を別にしても住民参加だろうと私は思います。例えば、それがこういう場で話してしまうと、じゃあ、我々がそうやって動きやすくなるには、それから、今までは所謂、行政のやることに口をつぐんできた方々、やはりどこかでいつも不満を持ちながら、なんだかおかしいんじゃないかという気持ちを含みながら、「まあ、仕方ないべ」みたいなところで済ませていた方々、やはりそういう方々に対しては、我々はこういうやり方でやってみるから、「一緒にやってみたらどうだい」と。そして、その時に「やろうよ」という人がいれば、もうこれは仲間としてやっていく。「いやあ、そんなの嫌だ」という方々は無理に引っ張って来る必要はない。
ですから、住民参加というのは、どちらかから言ってくるのではなしに、私自身が一住民であり一市民なんだと。で、それがたまたま仕事としてお金を貰ってプランをやる場合もあるし、逆に自分のエリアに飛び込んだ場合には自分の持っているノウハウだって何だって、そりゃあ、レベルによりますけれど、無償協力をして単なる一市民として、まあ、お百姓さんは花壇を作る時にトラクターで畑を耕してくれる、私はちょっとペンと鉛筆で花壇のデザインをしてみるみたいな参加がありうる。時間のあるあばさんが花壇に水をまくみたいな、そういうものから含めて、私自身がその地域を創る時にいろいろな役割を分担していくというようなものが、どうも住民参加なのではないかなと、根本的にはそう思っています。それで、行政だのプランナーだのとその事業として大きな枠組みが、やはり厳然としてある中で、それに対してどう変革をしていくか。やはり、変革は必要だろうと思います。今の公共事業・体制に対して、何らかの変革をしていく時の、「こういうシステムを使えば」とか「ここが解決して、これは解決出来ない。」などと言う分類は、まだ出来ないのですけれども、一人の人間・市民として関っていくという。もう、それ以外にないのかなと思っています。
司会:あの、いろいろな意見が出てきていますが、実は、今日の会のこの案内文書を見た人もいれば見ない人もいるわけなんですが、「住民参加の課題を探る」って、実は書いてあるんです。で、いろいろあると思うのですが、実は住民参加というのは、昨日、夜中にテレビを観ていたら8チャンネンかなんかでパネルディスカッションみたいのをやっていまして、「住民参加連携」なんかやっていましたけれとも、同じようなことをやっているんです。一般論は、実は私も聞き飽きるほど聞いていている。今日、来ている人は多分「住民参加は必要だろう」と思っているんだろうと。こんな会にわざわざ休みの日にですね来ている訳ですから。それでは、住民参加の課題は何かっていうのを、皆さんに出していただければと思いますが。次に市民みんなで、住民参加をやるために必要なことは?
何をやるのか? 或いは、これで十分だと思っているのか?十分でないとすれば、それをどうやって解決していったら良いのか?ということを議論出来ればと私は思うのですが。まあ、今日、松園で実際やっている方もいらっしゃたり、いろいろな方も来ているんですね。課題があるのかないのかですね。課題があれば、お話いただければと思います。
会場からの発言・男性(E):えっー、住民の立場で。あの、今日ここにお集まりの皆さん4・5人の方存知あげていますけれど、お初にお目にかかる方もですね。えっー、何をやるにしても住民から見れば、そこに書いてある「合意」・「納得」。まさしく、そのとおりなんですよ。一番困るのはイデオロギーをフラットにするということです。これがものすごく難しいですね。これ、どっちのやり方をしても。極端な言い方をすると右か左というか、色で言えば良いのかわかりませんが。どちらにしても成功しても失敗しても、あの、色の濃いというか、右の強い人左の強い人にはですね、必ず中傷批判が出てくる。で、今やっている過程でもそうなんですが、例えば、メンバーが、もしピンク色。私、刺激の少ない灰色とかピンク色とか中間色の話ですが。やはり、メンバーに、どういうメンバーか分かりませんから。思想信条とかですね。その方々をフラットにして何事も進めるというのは非常に難しいということですね。自然保護と言いますけれど、どうしても左側っていう。こういうことを、住民参加をごく右側の人から見れば左になるんですね。先に立ってやりますと「左の肩持ったのか」って右の人は言いますしね。その、納得させないと。納得。やっぱりこれなんですね。で、納得させるには、例えば、今、大迫の早池峰山の問題なんかも反対している方のメンバーというのは、だいたいもう決まっていますけれどもね。自然保護で早池峰山だめなら、登山を禁止したらいいんじゃないか。‥‥‥‥それから、町内で問題なのっていうのは、犬・猫のことですね。これは飼わなきゃいいんじゃないかと。で、そういうのを目撃したら、もう飼わせない町内になればいいんじゃないかと。まあ、これも極端な意見なんですけれどね。そういう話をして納得に導くというやり方じゃないとですね。例えば、「ゴミをあんたの家の前にドンと積んでおいて、誰も手をかけなかったらどうする?」と、誰かに任せるかっていう話。極端な話を例にとると「それは極端だよ。」と言ってくれますけれどもね。要は、そのイデオロギーをフラットにして「それは何もないんだよ。」イデオロギーとは、もう関係なくやる。そういうイデオロギーのフラットさというのが非常に難しい。あの、タイトルでも決め付けられますからね。そういう点を。皆さんどういう信条の方かわかりませんが。あの、そのへんの兼ね合いというのは、ナイス・シュミレーション・タイムじゃあないかな。以上、住民代表です。
司会:わかりました。これに対してでもいいですが、他に何かないでしょうか?あ、どうぞ。
会場からの発言・女性(A):まとまりのない話になってしまうのですが、今の話に続けて。今日「地域デザインと住民参加」というものだったので、私が、私も先ほどお話のあったような中央のコンサルタント会社の職員なんですけれど、盛岡に2年、転勤で来まして住民参加の仕事を大分やらせてもらいました。で、住民参加という言い方、私、非常に嫌いなんですね。あの、私が盛岡市民としての主体性とかアイデンティティーをも、どう発揮する場がなかなかなくて、あの、非常にジレンマがあるわけですけれど。そういう、市民とか個人としての生き方を地域でどうするかってことを考えた時に、例えば、そのスタイルが、今言っているような住民参加という、たまたまそういう言い方をされちゃっているんですけれども。そういうことに、ただ当てはまるのかなっていうぐらいに思っています。で、業務の話をすると、地域デザインの業務を盛岡市の非常に近くの市町村でやりまして、50回。10地域50回、5回づつ、いちいちいちいち、ワークショップをやったんですよ。で、ほぼ全体全部出たんですけれど。地域デザインということで。総合計画とか都市マスタープランの住民参加と同じような地域全体のマスタープランを住民の意見を聞きながら、ちょっとまとめようかという話だったんですが。
まず、一つのスタンスとして、地域の主体性・地域の考えはそのままそれとして、行政から誘導しないというスタンスを、行政から言われたんですね。それは非常におもしろいということでやったんですけれど、だいたい地域に入って一番の課題、先ほどおっしゃったように、イデオロギーをフラットにするという作業がまず第1段階でありますよね。地域に入って20人30人、町内会ですとか地域のお顔の方がいらっしゃって、「じゃあ、地域の課題を話しましょう。」とふった時にだいたい出るのが、「この道路の側溝が、」要望がダーッと。これじゃあ、市政懇談会の延長なんかになっちゃうんですよね。でも、それは1回必要で、「わかりました。それは皆さん書いて下さい。」と言って書いてもらって、1回吐き出させますよね。その後で、声の大きい方ばかりが発言しちゃうから、そうじゃあないワークショップのような形でKJ法とかを使って、「じゃあ、この地域を皆さんどうしたいと考えていますか?」という、主体性の中でどうしたいのかという議論を、住民の皆さんでやってもらうんですよ。そうすると、今、おっしゃったようなフラットにする作業を住民の皆さん同士でなさいますよね。あ、私が関わった中ではなさっていました。それを見て「ハァー」と私も勉強しまして、「ああ、そうか。」って思って、私が誘導出来ない範囲で皆さんの中で話し合いをなさっていました。要するに、私もこんな若くて入っていますけれども、皆さん年配の方もいるし、地域のことをよく知っていて地域をすごく心配されているから、そういう気持ちで主体的に考える。そういう姿に非常に感動いたしました。で、話はとりとめないんですけれど、あの、今、私が業務としての課題に絞らせてもらうと、そういうフラットにする技術とかですね。みなさんの住民のレベルも、レベル、なんか言い方悪いですけれど、関心の範囲とか年齢とか女性なのかとか全然立場が違うし、右の人も左の人も、道路が欲しい人や公園が欲しい人、いろいろいるわけですよね。そういう、いろいろごちゃごちゃしたものをちょっと1回、こう、ちょっと1回、「まあ、まあ、まあ。」って、そういうテクニックが行政やコンサル側にも求められている。で、後は、行政の体制としては、地域担当とかです。行政の中に、例えば「私は盛岡市の南大通り担当です」とか、そういう地域の窓口みたいな体制づくりも、まだ、これからの話なんで。あの、いろいろありますけれども、そういう役所の意識も住民の意識もコンサルの意識も、いろいろな所で変わらなきゃいけないんだなっていうものをものすごく感じたりしております。
丸山:ちょっといいですか。あの、今のことで質問なんですが、どういうエリアで、やられているんですか?具体的に。都市部とか農山村部とか。
女性(A):盛岡の隣に。
丸山:というのは、先ほどからいろいろ、都市部とか地方とか。それに差があるとか無いとか。村社会の問題。イデオロギーの問題。やはり、大きな問題であるような気もするし、逆に、今、おっしゃったみたいに上手にコントロールしていけば問題ない。非常におもしろいし、逆説になるっていう気もするんですよ。
女性(A):あの、私、東京の出身なんですけれど。地元が八王子という所で。
丸山:ええ、私も住んでいました。八王子に。
女性(A):ああ、そうですか。あの、東京の村みたいな所なんですよね。東京もコミュニティーがあって。そこに入ると村じゃないですか。
丸山:あ、それで。すいません。あの質問はですね。メンバーを、ワークショップでも懇談会でも集める方法というのは、どういう人たちを集めたのですか?公民館単位。例えば、公募したとか。ちょっと具体的に話して下さい。
女性(A):はい。町内会の地区担当の方に行政の方がお願いして、大体こんな方を集めて下さいって投げちゃうんですよ。50人、30人、50人。で、後は、地区に任せて。
あ、さっきの都会と田舎の話で、東京にいた視点からこちらに来て岩手の地区に入ってみたら、先ほど中澤さんがおっしゃったように、殆ど変わらないんですよね。逆に、地方の先端というのは地域のことを思ったり。それは、もしかして差がないかもしれない。こっちは。
丸山:わかりました。今、何故こういう質問をしたかと言うと、私は、今大迫という人口7千数百人の小さな村社会というか町に住んでいまして、この7年間でいろいろなコンサルタントの方が来て総合計画とか地域計画とかやっていかれるわけですね。そうすると、2・3年ごとに報告書は出来てくるんだけれど、私共の目にも入らない。それから、行政自体が出来た報告書をどこかに棚積みにしておくというような、そういう傾向が続いてきているわけですね。それで、実は、こういう仕事をしているから、7年間「やりたい。参加したい。」と自主的に意志表示はするんですけれども、残念ながら、一度もそういう集まりに呼ばれたことはないんですよ。と言うのは、私だけではなくて、ある意味で意識を持っている若い方々がそういう場に出にくい状況ということはありますね。やはり、行政が企画して公民館なり、或る地域で人を集めてという場合には、やはり農協関係者とか或る婦人団体とか或る教育団体とか。やはり、まだまだ、そういう所に偏っていく傾向にあると思います。そうすると、もうひとつの課題は、先ほどからたまに出てくる、オープンにすること。誰でも自由に参加出来るような形のものを、何かそういうものを育てていく仕組みづくりのようなものも、我々は考えていかなければならないのかなと思っています。
女性(A):突破口として、行政といつも顔が繋がっていて、ある程度のパートナーシップがある町内会とか、地域のことを心配されている方って年齢層が高くなるじゃあないですか。60歳ぐらいとか。地域のことを心配されている方って。私の年代はどうでもいいんですね。
丸山:以外とそうでもないですよ。
女性(A):ああ、そうですか。掃除に行くぐらいじゃないですか。あ、そうでもないですか。
丸山:そうでもないですよ。
女性(A):大体はそうなんです。あの、実際に行政から入り込む時には、やっぱり、突破口として町内会とか既存組織をすごく尊重していくのが………、
丸山:わかりました。ですから、私も今、三者の立場で考えていますから、町の住民としてコンサル的立場として、それから、行政との仕事の関わりとして。その三つ巴の中で、ちょっと考えていますんでいろいろ混乱する面もあるんですが。ありがとうございました。
中澤:私は今の意見に一つ反論があって、ここは議論の場ですから敢えて反論するんですが。行政から言うと、そういうやり方が一番やりやすいんですよね。地域の、その、公民館の単位とかですね。学校とかPTAに声をかけて、「人を呼んで下さい。」というんですよね。簡単に集まるわけですよ。そうすると、基本的に決まった人が来るんです。もう、意見も大体決まった意見で。で、私は、それは旧来型のやり方ではないかと思うんですよ。それならばと、実際にオープンに「どうぞ」と言ってやっても同じくらいしか来ないんですよ。実際、「子供から大人までどうぞ」と言っても同じような人が来るんですよ。でも、たまに1人か2人違う人が来ますね。で、私は、我々は、実際、おっしゃったように土・日なんか忙しいですよ。若い人は特に。だから、そんなに出て来ないですよ、ほとんどは。だけど、“出られる”という形を作ることが大事だと思います。10回に1回でも、いざとなったら「俺は行って意見を言う。」と。普段は「もうそんなの、俺は任せます。」と。出れる形を作っておかないと、一番簡単なやり方でやっていくと、結局、前と同じ形になってしまうと思うのです。
女性(A):全然反論じゃなくて、あの、私の言ったのは第1歩としての取っ掛かりとしては、町内会の組織とか議会に敬意をはらって、その動きが、ある程度活性化してきたらメンバー交代とか新しい人を入れるとか、ある程度柔軟な考えとか必要に……
中澤:私の考えは最初からオープンにするべきだと思うんです。今までは、どうしても委員会・懇談会、さっき大村さんも言っていましたけれど、今まで住民参加と言って農協の会長さんとか町内会の会長さんとかが住民参加していたんですよ。それが、そもそも良いのかってことから住民参加の議論が始まったと思うんです。もっと前は、議員さんを選んだんだから、それも住民参加なんですよね。住民から選んだんだから。そういうのがどうも巧くいかないから、住民参加という声が出てきたのではないかと思うんですよ。だから、住民参加の一番の基本は、私はオープン参加ではないかと思うんです。いろいろ反論はあると思うんですけれど、「そうじゃない。」というところからスタートすると、どうしたって既存のシステムから抜け出せないんじゃないかなと私は思うんです。
女性(A):あの、公募とかを使うということですか?
中澤:そうです。基本的に。
女性(A):あの、公募とか使うと声が大きくて、公募に参加する方って決まってくるんですけれど。
中澤:そりゃあ、そうです。ありますよ。しかしですね、私は公募で出てきて議論に負けるようだったらそれまでのことだし、また逆に来ない人は放棄したと思うんですね、意見を言うのを。ある意味では。公募して来ないということは、そういう見方もあるんですね。
女性(A):えー、でも、環境統計学では、そういう大多数をターゲットにするので放棄できないですよね。
中澤:放棄できないっていうのは?
丸山:これは、まとめるプランニングのテーマによって違うことなんで、ちょっとここで切っていただいた方が良いかもしれない。
司会:じゃあ、別の機会に。
会場からの発言・男性(A):行政として、特に、末端行政として市民参加が踏み切れない状況というのは、実は、そのへんにあるんではないかと。先ほど、市民の方から「イデオロギーの問題があるのではないか」と話がでたんですけれど、来た方が何か色ついているのではないかと。公募したら何かそういう風な色だけつけて、掻き回されてしまうんではないか。それであれば、或る代表であれば、その代表なりの立場で意見を言ってくれるのではないかというようなところで。で、さっき、コンサルタントの方が言っていましたが、ワークショップやったらと言ってましたが、ワークショップやったら住民のエゴだけ、ただ単なる行政に対する文句だけの会になるのではないかという不安もあるのではないかと思います。ですから、そのへんのところが、上手く、そのフィルターがかかってくるのであったら、まず、その来た方の中で、それが市民の大方の意見だよと言う風なところが必要ではないのかなと、それを行政の方で、どう取り入れるのかということは、あくまでも行政と事業性が住民参加で何かやるということがあるのではないか。それと、もうひとつはですね、住民に裏切られるのではないかという不安感。と申しますのは、例えば、町内会要望で何かやったと、で、いざ工事にかかったら「いや、反対だ。」と。きっと、今までもあったのではないかという風に思いまして、そういう風な不安というのが、多分行政の中にはあるのではないかと思っています。
会場からの発言・男性(C):えっと、今の立場、課題を3点挙げますと、1点はですね。まず、住民参加の公園づくりをやってきて、役所の理解が非常に重要でした。やはり、役所の方で、僕ら公園を作る時に市の土地なんですけれど、「どうぞ、ご自由に。」と、「木を切ってもいいですよ。もう、何を壊してもいいですよ。」と、ここまで踏み切って発言していただいたのと、僕らが一生懸命やっているのを見て、段々段々賛同してくれる方が増えてくれたのではないかなと。前向きな協力を、内部で協力者を求めていたこともあって、それで、予算が後から付いてきたり、それで、役所の理解が非常に必要だなと思いました。
次に、住民参加ということなんですが、ワークショップの他に別なソースを持つことが必要だと思いました。僕らは1年間で2回、全戸アンケートというのをやったし、それから、検討委員会も増やしたり、人が少なかったらどうしようということで、声なき声というのか、参加する人・関与する人が出来るだけ多くなるように会報を出してもらったりすることが必要だったので、やはり、ワークショップオンリーじゃないものが必要だなと思いました。
それから、もう1点は、今後の課題というか、僕ら自身の課題でもあるんですけれど、みんなボランティアで僕らもやっているし、町内会の方も実行委員会の方もやっているんですが、継続性のつらさというかな。結構、事務局は、私も事務局で、このへんにいるのも事務局なんですけれども、情報をまとめたり記録をとったり役所と交渉したり下ごしらえしたりしているんですけれど、結構つらいっていうかですね、あの、作業的に量が多いなというのが、正直なところあります。楽しいんですけれども。変なんですが、お金のこととか労力のことというか、人的なスタッフとかですね。ちょっと、サポートが欲しいなあというのが実態ですね。事務局がしっかりしたものが欲しいなあというのが。以上3点です。
田村(風景計画家):住民参加といっても住民の意見とは何なのか、そしてどの意見を吸い上げれば良いのかという判断は、実際に絵を描くプランナーにとって大切な問題です。
これまでと立場を変えて、一住民として地域づくりをお手伝いできることは何なのかを模索してきましたが、その中で特に感じたことは、公の場以外でもまちづくりへ発言することをはばかる雰囲気が多くの普通の人の中にあることです。
それはさっきも出ましたけれど、表でものが自由に言える人、依嘱される委員なども長老などの顔ぶれが決まっていて、ほぼ無難な意見の結論に納まることが見えている。経験から言えばたぶんそれを期待して依嘱する場合もあるのでは。だから懇談会や委員会でのコモンセンスのとりまとめだけではどこにでもある的なまちづくりの提案になりがちになる。中澤さんが意見をうまく引き出せば山奥の人も田舎のおばさんもしっかりと意見をしゃべると話されましたが、私もまちづくりとまったく縁のないようなおばあちゃんも一対一で話をすれば夢をいっぱい持っているということを知りました。
「住民参加」にはまず自分が参加するという能動的な意識とアクションを起す必要がある。しかし、実際には暇とか意識とかに関係無く、人の目などで「住民参加」すらできない人たちがたくさんいる。その人たちの心にも宿っている思いというのは本当はいっぱいあるわけです。それをどうやって引き出していくかというと、組織的なものでは限界があって日常の草の根活動で根気よく掘り起こして補完していくしかない。
その土地だけにある歴史や自然から生まれるアイデンティティーを求めるにはさっきの住民参加すらすらはばかるような人たちの意見も拾い上げないと「本当にその土地の風土に根差した生命あるものづくりなんてできないよ」という気がします。まあ、とても難しことですが。
中澤:私は、田村さんの前の方の意見で、イデオロギーでいろいろ何とか言うというお話があり、つまり声の大きい人が声を出すというのは、それはいろいろあるんですね。今までも、やってきた時に思うのは、何のために住民参加をやるのかということですね。その、社会の一般的な意見、所謂、コモンセンスを吸い上げるというのが住民参加だと。特殊な意見は、いっぱいあるんですよ。実は10人十色の意見があるんです。だけども、私共、公共事業に対しての住民参加をやる時には、みんなが一番納得する意見を吸い上げるという、みんなが納得する意見をどうやって吸い上げるか、ただ、この一点なんです。そうするとですね。確かに、おっしゃるとおり声の大きい人はどんどん言うし、或いは、イデオロギーのこっち側の人はワァーと言う。で、それを何とか平らにするのが住民参加ではないかなと私は思っています。
今まで1対1で交渉に行くと、その人は自分の意見が絶対に正しいと思っていますから、バンバンと言う。そして、自分の意見が受け入れられないと、それは役所がおかしいと言うんです。他でも、みなさんそうだと思いますね。ところが、住民参加でみんないっぱい来て言っていると、例えば、自然保護の人がいて、そうじゃない人がいて、自然保護の人の言うことをこっちの人が「そうじゃないよ。」と言えば、そうじゃない人がいるということがわかるんですね。逆の立場の場合もあるんです。自分の意見に反対する人が、住民の中に逆の立場の人がいるということがわかるということが、どんどん進めば良いと思うんです。実際には、そう簡単にいかなくて、確かに声の大きい人の意見が通る場合が多いです。で、一回そういうことで物を作ってみるといいんです。失敗するわけです。失敗するっていうのは、大多数の人が納得できない物ができてしまう。それは、こっちの人は意見を言わなかったから違うものが出来てしまう訳です。。そうすれば、こっちの人は言わなくてはいけないと思うようになる。ところが、さっきの方が裏切られるのが心配だとおっしゃいましたが、裏切られるのも、私は5勝3敗ぐらいでいいんではないかと思うんです。3回ぐらい失敗して、次に5勝するのだと、5回勝つのだという形でいけばいい。役所はなかなか今までそうはいかなかったと思うんですが。その、10戦10勝しなくてはいけないということによって、ガチッとしたシステムを作ったと思うんです。ところが、5勝3敗という形でいけば、もう少しフレキシブルな形でやって、10戦10勝より、もっと良い形にいける可能性があるのではないかなと私は思っています。だから、住民参加は1回目をやって失敗でもいいんだというぐらいの形で、住民参加をやれば本当は良いんではないかと私は思っています。
会場からの発言・男性(E):あの、今、さっきの「同意・納得」の話なんですが、政治にも関心がないのは論争がないからなのかなと思うんです。大論争をしていく、論争というのは2人だけでは出来ないし、論争して、論争することによって、実は関心を高めるという意味では全くそのとおりだと思います。
会場からの発言・男性(B):まず、今日のお話で、ずっと最初からのお話を聞く中で、全体としては先ほどおっしゃった啓蒙という考え方ではスタート出来ないと思うんですね。まず、それが大前提としてあるのではないかと。やはり、その上で、住民参加という試みの中に入っていって、働きかけそこから自分も何か得ることが出来るかという、その、参加者はそれが為し得るかということだと思うんですけれども、今回明らかになった課題として、「住民参加を呼び掛ける方法」についてということがあげられました。その第1歩はどういった所からスタートするのか。そこで、お互いの手法の違いを云々していって、それでは駄目だという話をしていっては、全然前に進みません。そういった意味では、「次にこんなことをした。こんな手法があって、そのいろいろな手法の中から第1歩をこのようにやった。こんなところに気をつけた。これは失敗した。これは上手くいった。」とか、そういった情報が集まり、こういった集まりに参加した人たちの中でやりとりされていいんではないか。やはり、住民参加、市民であるとか住民であるとか、それからNPOであるとか期待をはらんで使われる言葉に閉じ込めずに、言葉を越えていく行為を重ねていかなければいけないんではないかなと思います。いろいろな所でいろいろな期待感も理想もあり、そういったものを地道に進めていくためには、お互いいろいろな立場でいろいろな活動をやっているけれども、試みの中での失敗・成功について「ここまでだったら、どんどんオープンに出来るよ。」と。「コンサルの立場だけど、こういったテクニックはオープンに出来るよ。」とか、「行政の立場だけど個人としては、こういう風にやると上手くいったよ。」とか、情報の流通というものが、これから、この場から生まれていくのかなと思いました。
中澤:私、ひとつだけ付け加えておきたいのは、住民参加を阻んできたのは、住民側にもあるのだと思っています。つまり、行政側に1回も失敗を許さなかったんですね。行政は1回失敗すると新聞でバンバンバンと叩かれる。だから、行政は1回も失敗を許されなかったので住民参加より、行政は自分でやった方が確実だと思っていたのです。ところが、1ー2回の失敗を許してもらえば、住民参加もやって、失敗という形もひとつ作れるんですよ。私は行政の立場から言えば、住民参加をもっとやる。そうすれば、社会がもうひとつ上のランクに進める。そういう気がします。だから、住民参加を行政が取り込めなかったのは、住民にも責任があると思っています。というのをひとつだけ付け加えておきます。
会場からの発言・女性(B):あの、今の中澤さんの御意見なんですけれど、確かに住民にも、住民参加に関しては住民にも責任はあると思うんですけれども、1回も行政に対して失敗を認めてこなかったというも事実なんですが、その失敗を、行政は、その失敗を認めたくなかった。認めてこなかったという事実もあるんですね。で、非常に警戒心が強いというイメージを私は持っているのですけれど。あの、「そうですね。あなたの言っていることも一理ありますね。」といった受け答えでなく、もう、まず、答えを用意して来ていますというような感じの発言で、そういう意味での懇談会等のケースが非常に多かったとおもいます。希望としましては、行政の方も少しこう柔らかな気持ちで、柔軟な態度でコミュニケーションをとっていただければ、お互いに上手くいくのではないかなという風に感じます。
司会:ありがとうございました。最後にすばらしいまとめる意見を言っていただきました。丁度、12時になりました。ここは12時までしか借りれませんので。まあ、今日の会は第1回めということで、上手くいけば月に一遍ぐらいは続けていきたいなあと。ただ、エネルギーが続くかどうか。先ほどもありましたけれども、継続が大事だというお話がありましたけれども、その継続が出来るかどうか。エネルギーが続けば何かやっていきたいなあと思っていますんで。あの、入口に紙を置いてありますので、次回も案内が欲しいという方がいらっしゃれば、Eメールなりファックスのナンバーなり書いていただければ、次回もやれるようであれば案内を出したいと思います。その実は、会場を借りるとか記録を残しておきたいのでテープをおこすのも、少しかかるような話もあるんで、今日聞いた価値の分だけ、300円以内でカンパをお願いできれば、会が継続出来るのではないかなと思います。じゃあ、そういうところで、今日はお忙しいところ、どうもありがとうございました。
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